『第三十一段 今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし』

                                    大 橋 むつお
 わたしの徒然草 (15)

 原文は、簡単である。

 「大雪の降った日に、ある(やんごとなき人とも思われる)人に手紙を出したところ、『こんなにも珍しく、雪が降ったのに、そのことに一言も触れていないのはつまらないですねえ』と、返事が返ってきた。どうってことはないけど、亡くなった人からのものかと思うと忘れられない」

 二十九段からのブルーは、この人の死と関わりがあるのかも知れない。あとの三十二段にも読みようによっては
「引きずってるなあ」
と、思われるところがある。

 どうやら、「ある人」とは兼好のオッチャンが想いを寄せていたように受け止める人が多いようだ。


 しかし、これは『わたしの徒然草』なので、勝手に妄想を膨らませる。
というか自分にビビっと感じたところで書かせていただく。


 この歳になると、「今は亡き人」がゴマンといる。

わたしの恩師(といっても、この方は女子校の先生で、演劇部の連盟の活動の上での恩師)に、藤木邦夫先生がいる。
読者は誰もご存じではないと思うが、金井克子さん、秋野暢子さんの恩師と言えば「ああ」と、思われる方も多いのではとおもう。

大学の五回生(留年したので)のとき、呼び出された。
「来年から、うちのS高校で、社会科の教師やれ」
それだけ言われて、教頭や、教科主任の先生方に面通しさせられた。
「あ、これで、就職決まりや!」
と、思った。

 ところが、翌春に
「採用は見合わせていただきます。なお、後日採用させていただくこともありますので、履歴書はお預かりいたします」
と、葉書がきた。
「先生、これはないでしょ……」
という意味のことを言った。
「大橋、もっと足運ばなあかんで」
と、答えられた。

わたしの履歴書はいまだにS高校にあるのかもしれない。

当時のわたしは、世間知らずで、こういう就職の場合、足を運んで「運動」をしなければならないということに思い至らなかった。


おことわりしておくが、今から四十五年前の話で、世間とはそういうものであった。

S高校にも、藤木先生にもなんのオチドも、ヨコシマなところもない。


 当時の高校演劇はアナーキーで、生徒が運営権を握っていた。
だから連盟とは名乗れず研究会と称していた。
藤木先生は、それを時間をかけて教師が責任をもってやれる連盟に変えていかれていた。
これはと思う高校生を見つけては時間をかけて育て、連盟を担える教師にするという気の長さであった。
翌年、後輩がめでたくS高校に就職し、その職責を果たしている。

 この藤木先生は、沖縄戦の生き残りである。
多くは語られなかったが、米軍により沖縄の南部に追いつめられた時、仲間の兵といっしょに斥候に出された。

 米兵に見つかり、追撃され、仲間の兵は撃ち殺された……そのあとの話は、捕虜生活の話になる。

 その斥候に出され、捕虜になるまでには言い難いアレコレがあったのであろう。
ご退職後、真っ先にされたことは沖縄への訪問であった。
このことが先生の沖縄での屈託を物語っていると思う。


 先生は、学生のころ演劇にドップリ浸かり、特高にも追い回されたそうである。

 英語が堪能でいらっしゃったので、収容所でも通訳として重宝がられ、収容所で劇団を作り、タクマシク捕虜生活を送っておられた。
そして一年余、無事に釈放され、復員された。

 気の毒なのは奥さんで、終戦から毎日大阪駅へ行っては
「○○部隊の藤木はおりませんでしょうか!?」
と、捜されたそうである。

 昭和二十一年の秋、大阪駅頭で、血色のよい復員兵と。
やせ衰えた銃後の妻は再会を果たされた。
そういう話を、面白おかしく語ってくださった。

 わたしたちは、ほんのガキンチョであった。

 「アハハ、また藤木のオッサンの昔話や」
としか聞いていなかった。

先生も
「アハハ」
で、それ以上の話をなさろうとはされなかった。

 真剣に聞いておくべきだったと、この歳になって思う。
自分自身が藤木先生の歳に近づいてきた。


 わたしには人に語るべきほどの過去がない……と思っていた。

 しかし、昨年縁あって、某高校の演劇部の指導員を一年余務め、当初の約束通り、コンクールの予選で、一等賞。
本選は落ちた。
そのずさんな審査のありように、めずらしく手を挙げて発言をしてしまった。
手厳しい反目、そして黙殺にあった。

 結果、大阪の高校演劇には関わらないと宣言し、この宣言は沈黙をもって了とされた。
ブログで、たまにこれに触れることがあるが、カエリミル人はほとんどいない。
ツイッターで時にヒニクられる。

 「おや、ぼくは、自分の作品を自分で審査できるようだ」
 これは、東京の某劇団主宰者からいただいたツブヤキである。
芝居の世界も魑魅魍魎(ちみもうりょう)で、大阪の高校演劇についてのイザコザがなぜか東京の劇団から揶揄(やゆ)される。

 わたしは大阪の高校演劇関係者では、最古参になってしまった(いまだに、劇作家として関わっている)
 想いを言い続けるべきか、「アハハ」と笑って、過去の人となるべきか……
 今は、ハムレットである。


 ただ、これだけは言える。
アラ還の世代として、団塊の世代のもう一つ前の世代の話は聞いておかなければならない。
みなさん八十代の後半におなりである。

 ちなみに、藤木先生が御存命であれば百五歳ほどにおなりになっている。


 自分のありようが、この国のありようとは無縁ではない。
 大げさかもしれないが、二十八段からそう思い続けている。

                            (劇作家・大阪府八尾市)




この記事へのコメント

しょう
2018年04月04日 00:25
はじめまして、藤木邦夫の孫です。偶然祖父の名前を検索したところ大橋様が祖父のことを話題にされてましたのでコメントさせていただきます。わたしも何の因果か言語は違いますが通訳業に近い仕事をしており最近とみにこもう少し祖父の話をよく聞いておけばよかったと後悔しております。このように祖父のことを話題していただき大変ありがたく思い、コメントさせていただきました。

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