『 平凡の風 』

   おたん小坊主の庭 『貫裕説法』 96

佐 竹 貫 裕

  『 平凡の風 』
    聞思の人生


○平凡の風の中からメロディを作れ

○自分の心が最も弾むのは、自分の存在を味わうとき      (愚身貫)

○世謡をするだけでなく、こころを与えなさい。       (マザーテレサ)

〇相手の原点を知ると、親しみを感じるばかりか、
その人を.理解する助けとなります。                (和泉育子)

○子どもには徳を教えよ。徳のみが幸福をもたらすことができるのだ。
決して金ではない。自分の経験からこういう。
逆境の中で僕を励ましたもの、それは徳である。    (べートーベン)

○「予が如き下機の行法は、阿弥陀仏の法蔵因位の昔、かねて定め置かるゝをや」
 (わたしのような愚かな者に与えられた修行方法[=お念仏]は、
阿弥陀仏がまだ成仏される以前、法蔵菩 薩という御名前で御誓
  いを建てられ、御修行なさった頃に、あらかじめ定め置かれてありました)
 (法然)

○浄土真宗で言うところの「自力」とは、エゴイズムの力、
独りよがりな努カ我慢心のことを言う。
これを真宗では「雑毒の善」といって「我執」であるとして、
自力無効を唱えるのである。



  『茨の道』

 骨にしみるような冷たい風の吹きすさぶ中、熊沢蕃山は、
中江藤樹の門前に座りこんで、動かなかった。命がけの入門懇願である。

 その熟意がとおり、入門を許された蕃山は、一意勉学に専念したが、
その翌年、父・利一が浪人になったため家庭事情が許さず、
早くも帰郷して、一家を助けねばならない羽目に追いやられてしまつた。

 母は
「せっかくいいお師匠さんにつくことになって、私もやれやれと思っていたのに、こんなことになって、おまえにまでほんとうに苦労をかけるね」
と、蕃山を慰めたが、蕃山は、
「いや、おかあさん、ご心配くださいますな。わたしは何とも思っておりません。いえ、先生はつねづね、机に向かって本を読むことだけが修行ではなく、災害にあうことも、貧苦に悩まされることも、困難にぶち当たることも、すべて修行であるとおっしゃいました。それらにぶち当たっても、決してくじけない心身を鍛えあげることが大切で、わたくしはそのつもりで修行をつづけたいと思っているのです」
と、答えた。

「しかし、身につけているものは布子、口にするものは雑炊といった、あまりにも落ちぶれたこんな暮らしでは……」
「いえ、そんなことは、なんでもないことです。いつなんどき、もっとひどい災難や不幸に出合うかわかりませんから、それに耐え、それに打ちかっていく心身を錬磨するつもりで、わたくしはこの暮らしの中で、喜んで勉学レていきたいと思っています」

 蕃山はそう答えると、弟妹とともに山に入って木こりとなり、
みずからの境遇にいささかの不満もなく五年の間、
孜々として知行合一の実学を学んだ。

 二十七歳、備前の池田光政に召し抱えられることになったが、かの有名な、

  憂きことのなおこの上につもれかし
          限りある身の力ためさん


という歌は、そのときの述懐であり、
その覚悟は、困難と災害の茨の道であった、彼の一生を貫いたのである。

 詮のないことを、いってみたり、思ってみたりしたところで、
詮のない事情は、どうにもならないのである。

 しかし、どうにもならないとわかっていながら、詮のないことをいってみたり、
思ってみたりせずにいられない人間の弱さを、
われわれは簡単に一笑しようとは思わないが、
といって、その弱さに沈みきりでいたのでは、話にならない。

 生きるということは、勇気をもって、みずからの道を、
みずからで切り開くことである。

 いかなる災害困苦の茨の道も、
「限りある身の力ためす」試練の機会であると受けとるとき、
それに向かっておのずから「憂きことのなおこの上につもれかし」と
ぶつかっていく、凛々たる勇気がわきおこってくるのだ。

                      【花岡大学 著 『魂の奔流』より】



  『医師の誤診で子を失う』

 私は、今年二月子供をなくしました。それが医師の誤診でしたので、非常に残念に思って恨んでおります。いま仏縁に帰依して、恨んでいたことがまちがっていたと思っても、どうしてもあきらめられません。この苦しみをお救いください。

 近頃、うっかり外へ出ても、じきに交通事故というようなこともありまして、
これも一種の杜会的誤診でしょうから、
そういうことさえなければいいんでしょうがね。
かたほうは自動車というような機械であるといいましても、
運転するのは人間ですからね、
相手が人であるということによって何かこう人をとがめるようになるのでしょう。
そうすると、この問題もどうなのでしょうか。
医者をとがめてみたところで、そうかといって生き返るものじゃない。
医者だってけっしていい気持ちじゃおらないし、そういうことがわかれば、
人間世界というものは、いつでも誤らずにいくものではなく、
かえつて人間はまちがいのないように、
まちがいのないようにとやっているつもりでも、
翻ってみるとまちがいだらけの世の中であるということも
見きわめていくのが仏法なのでありましょう。
思うてみれば自分のするとだってまちがいだらけで、
人を害しているようなこともあるのではないでしょうか。
生あるものは必ず死に帰すのでありますが、
その死は生を全うじて後にと決まってはおりません。

 緒局、生死の問題です。どんな機会で人は死なぬとも限らない。
どんな不慮の災難で死なぬとも限らない、
というところに根本の問題があるのではないかということです。
その根本の問題を解いていけば、
医者の誤診というものもそう深くとがめるべきじゃなくて、
大きな心でこれを許すといいましょうか、そういう道もあるように思います。
そうすれば、その医者の誤診もまた
天命ということに思いあきらめることができましょう。
そこが仏法聴聞する人の心がけでないだろうかということを、
私はいいたいのです。そしてそれより他に、
私らのものいう場というのはなくなつたのではないかと私は思うのです。
そういう場合にははっきりわかつていたら訴えてもいいのでしょう。
賠償金もとれるのでしょう。それで済むならまあそれでいいわけなのですね。

 けれども、それで済みますかと言いたいのが私らの立ち場ですね。
現在はそれで済まさないと困る事情があるというならば、
そうするより他ないでしょうが、そうせぬと腹いやしができぬ、
というようなことは考え直さねばなりません。
何せこのような時代になって、
このような問題がわれわれの前に提出されるということは、
いよいよ深く人間、人生というものを考えさせるのであります。
自分だって今のお医者さまのようなまちがったことはないと保証できますか、
とこう言いたいのです。
そうすれば、まちがいだらけの人生を、
どこかで許してもらおうという道がなければならぬのであります。

 人間世界というものは、互いにあやまちの多いものだ、
ということをお詫びしあっていくより他ないのじゃありませんか、
というのが仏法の答えだと思いますね。
こちらはこちらだけの精神の範囲内でお答えするということですね。
これは捨てんとも取らんとも面々の御計らいです。



  『子供を亡くした悲しみ』

 二人の子供を亡くし、悲しさの中にどうしようもなく、仏教婦人会に入り、ときどき教えも聞かしていただく身にはなったが、やはり子供の影がちらつき、私のような不幸なものはないと、悲しくなってしまいます。どうしたらいいでしようか。

 父親もそうでありますが、母親というものは特に子供を亡くすると、
いつまでも忘れないものですね。
それはそれでいいことではないかと思います。
ただ、そういう方に大して私として書いたいことは、亡くなつたものはもう、
いかなる意味においても無になったと思ってはならないということです。
悲しき思い出に忘れられない限りは、
あの世に生きておるものと思うべきでありましょう。

 そうしますと、
またこの立ち場になつて見るということも出てくるのであります。
その子の立ち場になってみれば、
親に先立つ子は不幸であるということばがある。
そうすれば、おかあさまがたに先立った私は親不孝なものであった。
そのうえさらにお母さんが泣いておるとすれば
、いよいよ親不孝を重ねているということになる。
それは耐えられぬことであり、はなはだあい済まないことでありますが、
お許しくださいというのが子の心であるということを、
お考えになることができましょう。
そうすれば、おかあさんとしては、先立つ子を親不孝にしてはならない。
いやそれどころではない。
お前こそほんとうに親孝行な子であったいと
思い直す道を見つけなければならないのであります。
その道はというと、それこそ昔から言いますように、
「先立つ子は善知識なり」ということであります。
だからこのおかあさんは、
この世にある自分の不幸をのみ悲しんでいますけれども、
あの世の子の心を思うことになれば、   
かえって悲しんでばかりおれないということになりましよう。

 自分を不幸にすることば、結局、親不孝な子にしてしまうことなのである。
そこで大事なわが予を親不孝な子にしては
済まないじゃないかということになるのではありませんか。
そして、その上に先立つ子の願いは、私の分も一緒になって、
道を求めておったとしましても、
今度は亡きわが子とともに一緒になって道を求めていくのである。
自分の救われていく道が、
そのまま子の救われてゆく道であるということに転換してゆく、
それがお念仏の道というものです。

                【金子大榮 著 『続現代人の信仰問答』より】











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