『 かの仏願に順ずる 』

   おたん小坊主の庭 『貫裕説法』 97

                                  佐 竹 貫 裕

  『 かの仏願に順ずる 』
    聞思の人生


○『 歎異抄 』は敢えて意義を破するを目的とするものではない。
むしろ「偏に同心行者の不審を散ぜんがため」であった。

○概念や律法やは人為であり、信心は自然である。
然るに人はこの自然の生命の泉を掬まずして、
いたずらに人為の偶像にのみ囚えらるゝのである。

○『一心に専ら阿弥陀の真名を称え、歩くも止まるも坐るも臥すも、
時の久しい近いを間わず、念々捨てざる時は、
これを正しい定まった行(行い)と名づける。
彼の阿弥陀仏の本願に順ずるが故に』              善導和尚

○人は世の転変無常に驚き、中心の慰安を求むるに心切なる時、
伝統の仏教は退廃して、
これらの要求を満たすべき何らの力を有しなかった。
求道の道俗は争うて吉水の門に集まるに至った。
かくて、吉水は自然に教界革新の一勢力となったのである。

○法の水は、唯だ謙敬の心の地にのみ流る。

○浄土教はこれ讃嘆の宗教。

○淘に仏徳讃嘆は、
われらの教人信(=人をして教え信ぜしめること)であり、
主張であり、仏恩報謝であり、自己表白である。



  『ちがった狙い』

 「考える人」「カレーの市民」などの名作を作って
世界的に有名なフランスの大彫刻家、
フランソワ・オーギュスト・ロダンが
彫刻家として認められるようになったのは、
五十歳近くになつてからであつた。

 それまでには、ずいぶん長い間、下積みの生活がつづいたが、
かれは歯をくいしばってそれに耐えた。

 名高い「青銅時代」というベルギーのネェという兵士を
モデルにした作品を展覧会へ出したのは、四十歳に近いころであったが、
その作品があまりにすばらしかつたので、審査員たちは、
「これはきっと生きたモデルから、じかに型をとって作った詐欺彫刻にちがいない」
といって、落選させようとしたのを、一人の審査員が、
「たとえ詐欺彫刻にしても、その詐欺ぶりはじつにうまい」
といって入選にはなったが、新聞雑誌をはじめ一般の人たちは、
ロダンを非難し攻撃した。

 その後数年たって、ロダンの公正だったことがはっきりとしたが、
この事件はいかにロダンの彫刻がすばらしかったかを物語っている。

 これまた傑作だといわれる「バルチザヅク像」を作ったのは、
五十八歳のときであったが、
これもはじめはさんざんな悪評を浴びせかけられた。

 だがロダンは、そんなことは少しも意に介せず、
「今にわかるさ」
といづて、こつこつと努力をつづけた。
そして「鈍いということは、一種の美徳だよ」と、
にこにこしながらみんなにいっていたということである。


 リルケは、『若き詩人への手紙』のなかで、
「一つの芸術作品に接するのに、批評的言辞をもってするほど不当なことはありません。それほ必ずや多かれ少なかれ結構な誤解に終わるだけのことです」
といい、その理由として、
「物事はすべてそんなに容易につかめるものでも言えるものでもありません。ともすれば世人は、そのように思いこませたがるものですけれども」
といっている。

 周知のごとく、リルケは若き日、ロダンのもとにあって、
その芸術的な影響の中で、
すぐれた詩人としての姿勢をつくりあげているといつていいだけに、
この批評不信のことばは、
そのまま、ロダンの精神を受けついでいるものと考えてよい。

 普通の芸術家にとってなら、詐欺彫刻事件といった、
いわれもない誤解によっての過酷な世評の総攻撃にあえば、
とてもそれに耐えうるだけの神経を持たず、
たちまち自信を喪失して転落してしまうのがおちだ。
もちろん、ロダンも詐欺呼ばわりに対しては、あくまでも敢然として戦い、
最後にその公正を明らかにはしているけれど、
もともとみずからの作品に対する問題の焦点がちがっていただけに、
その後五十八歳になっても、
さんざんな悪評を受けながらもいささかもこれを意に介せず、
不断の努力を続けているところに、
希有な芸術家の毅然とした大きさが光っているのである。

 ちがつた狙いとは、
再びリルケの同じ本における若き詩人あてのことばによって代弁してもらうと、
かれは、
「あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐってください。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかを調べてごらんなさい。もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白してください」
といっているように、ロダンがみずからの作品に対する問題は、
それに対するうわついた世評などではなくて、
それが自分の心の最も深い所に根を張っているかどうかを調べること、
ただそれだけであったわけだ。

 しかもそれが、死をかけての検討だというきびしさであることが、
われわれの心をはげしく打たずにはおかない。

 かれが、にこにこしながらいったという
「鈍いということは、一種の美徳だよ」という言葉には、
逆説的な意味もふくまれてはいようが、
しかし芸術作品というものは、それは言語に絶した秘密に充ちた存在で、
その生命は過ぎ去るわれわれの生命の傍らにあって、
永続するものであるかぎり、
一朝一夕の小手先の思いつきなどで仕上がるものではないことを
いっているものと解さねばならない。

 すると、このロダンの芸術に対する毅然たる態度は、
単に芸術の問題にかぎらず、
まるで世評の傀儡のごとくあわれに踊らされて、
じつに浮薄に一喜一憂しているわれわれの生活のすべてに、
それがズバリと鋭い針を突きさしていることに
気づかせられずにはいられないのである。


  『すがすがしい高風』

 伊勢三十二万石の領主、藤堂高虎は、将軍家光のにわかな召に応じて、
何事ならんといそぎ登城すると、
「蒲生氏郷が亡くなって、会津領四十万石は、闕所となっている。なにせ奥州第一の要衝の地なので、だれをそのあとに据えようかと、いろいろ考えたすえ、そちにまかせようときめたのだが、どうだ、行ってくれるか?」
との相談である。

 もちろん破格の栄転だ。  

 だが、よろこぶと思いのほか高虎は、
「まことにありがたき仰せ、うれしく存じますが、しかしごらんのとおりのこの老体では、とてもその大任は果たせそうにはございませんので、おことわり申し上げます」
と、きっぱり辞退した。

 家光はことばをつづける。
「それなら、だれをやればよいと思うか?」
「はい、嘉明が最適任者と存じます」、
「なにッ! 嘉明?あの加藤嘉明か?」
と、思わず家光は、聞き返した。

 朝鮮遠征のとき船戦の功名争い以来、
高虎と嘉明が犬猿の仲であるということは、
だれ知らぬ者もいないくらいに有名なことだったからである。

 高虎は、
「さようでございます」
と、うなずき、
「かれこそ、その大任を果たす大器でございましょう」

 家光は、なお首をかしげて、
「どうもそちの気持ちがはっきりわからない。よりによって、なぜそちは、あんなに仲の悪い男を推奨するのか?」
と、聞く。
すると高虎は、きっとかたちをあらため。
「不仲は個人の小事、そんなことをもって、天下の大事を誤るようなことがあってはならぬと思うからでございます」
と、答えたという。

 会津藩主となった嘉明は、後日この話を聞くと、直ちに高虎に深謝し、
以後深く親交を結んだということである。

 一身の栄誉のためには、親友でさえも突きのけ、
おしのけんとする心の中に秘められている、
醜い己の手に気づいて、慄然と立ちすくむ日はないか。

 一身の名聞のために、上に対してべたべたと媚態を示し、
心ならざる弄言に浮き身をやつす、汚れた己の演技に気づいて、
暗然と立ちすくむ日はないか。

 いわんや。一切の己の行為は、
個人感情を抜きにして成り立たぬ小ささを思うとき、
高虎のすがすがしい高風は、
突如するどい一振りの剣となって己の胸をつらぬくのである。
                      【花岡大学 著 『魂の奔流』より】


  『さとりについて』

 象を扱う術を学ぶのには、信念と健康をもち、
勤勉であって、偽りがなく、その上に智慧がなければならない。
仏に従ってさとりを得るにも、やはりこの五つがなければならない。
この五つがあれば、男でも女でも、仏の教えを学ぶのに長い年月は要しない。
これは、人にはみな、さとるべき性質がそなわっているからである。

 もともと、すべての人びとが、始めも知れない昔から、
煩悩の行為に縛られて、迷いを重ねているのは、
二つのもとを知らないからである。

 一つには生死のもとである迷いの心を、自己の本性と思っていること。
二つには、さとりの本性である清浄な心が、
迷いの心の裏側に隠されたまま
自己の上に備わっていることを知らないことである。

 動く心は、心の表面であって根本の心ではない。

 すべての人びとには、清浄の本心がある。
それが外の因縁によって起こる迷いのちりのために覆われている。
しかし、あくまでも迷いの心は従であつて主ではない。




"『 かの仏願に順ずる 』" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント